20年以上教師をしていると、いろいろなことがあります。
   驚くこともしばしば。
   いろいろな子がいました。
   ほとんどの場合、家庭に問題がありました。
   父親がギャンブル狂い…
   離婚
   お母さんが急に出て行ってしまった
   その他いろいろです。
   
   子どもの行動の背景に、家庭がありました。
   どうしようもない問題でした。
   プライバシーには…ということではありません。
   根本的なところで、大きな荷物を背負っているのです。
   そのような子を、たくさん見てきました。
   たとえば、ご飯を食べてこない子がいます。
   朝食抜きでくるのです。
   食べたくても、食べられないのです。
   教師が準備する以外にありませんでした。
  
   遠足のとき、弁当をもってこない子もいました。
   コンビニの弁当の子もいました。
  
   ものをもってこない子がいます。
   筆箱をもってこないのです。
   親にいっても、なしのつぶて。
   教師が用意しました。
   ところが、家にもって帰ると二度ともってきません。
   こんなことが、5回以上も続きました。
   しかたがないので、持ち帰らせないようにしました。
  
   子どもを愛さない親はいないと思います。
   しかし、愛を実感できない子はたくさんいると思います。
   「自分は愛されている」
   これがスタートであり、最終ラインであると思うのです。
  
   誰かが愛を実感させなければ…
   愛は、生きていくための命の水です。
   それが枯れた子は、数々の問題を引き起こしますね。


   誰かが愛を

   ある子は、上履きをもってきませんでした。
   ぼろぼろになった上履きがこわれると、そのままでした。
   スリッパを履いていました。
  「お母さんにいって、上履きを買ってもらいなさい」
   そうこうしているうちに、1ヶ月以上たったでしょうか。
   若かった私は、とうとう怒ってしまいました。
  「どうしてもってこないんだ」
   その子は、黙って下を向いたままでした。
   ※親に連絡をしても、返事は返ってきませんでした。
  
   私は、怒ってからはっとしました。
   もしかしたら、事情があって買ってもらえないのかもしれない…
   その日のうちに、靴屋に行きました。
   上履きを買ったのです。
   黙って、その子の下駄箱に置いておきました。
  
   その子は、何もいいませんでした。
   お礼の一言があってもいいだろう…当時は、そう思いました。
   今は、違います。
  
   かなりたってから、その子がいいました。
  「先生、上履きをくれたの先生でしょう。ありがとう…」


  愛とは行動
  
   人に相談されたことがあります。
   上履きをもってこない…たくさん相談を受けました。
   私は、「教師が上履きを買ってください」といいました。
   反応は、大きく2つにわかれました。
   ・すぐ、上履きを買いに行く。
   ・買いに行かない。
  
   決定的な違いです。
   買いに行かない…こちらは、普通ですね。
  「どうして私が? 親が買うべきでしょう」
  「教師ではなく、親の問題でしょう」
  と考えたのでしょう。
   そのとおりです。
   しかし、これでは状況は変わりません。
   相手を責めてもダメなのです。
   どうして?
   そこには愛がないからです。
   愛とは、
  「自分に何ができるか考え行動すること」
   ではないでしょうか。
  
   すぐに買いに行く人がいます。
   このような人は、すぐに報告してくれます。
   大概の場合、うまくいったという報告です。
   少なくとも、教師はきりきりしなくなりますね。
  

   忘れ物
   
   以前にも書いたことですが…
   忘れ物の指導をする人は多いですね。
   相談を受けることも、多いです。
   忘れ物をすると、学習に支障があるというのです。
   その通りです。
   しかし、その子を責めても忘れ物はなくなりません。
   教師の意識も変わっていきます。
   ・学習に支障がある。
      ↓
   ・また、忘れてきた。どうしてもってこないのか。
   忘れた子をたびたび叱ります。
   何度も何度も忘れますから、だんだん腹が立ってきます。
   その結果、「学習に支障がある」ということを忘れてしまいます。
   もってこさせることに意識が向いてしまうのです。
  
   貸してあげたらどうでしょう。
   貸せば「学習に支障」がなくなります。
   忘れても、先生が貸してくれるからいいや!
   ラッキー
   と思う子は、あまりいません。
   多くの子は、「申し訳ない…」と思っています。
   先生に借りができるのです。
   しかも、教師は「貸してあげているんだ」とは思いません。
   すっと、そっと渡します。
  
   忘れ物は、その子のせいかもしれません。
   自分のせいでも、人に責められると心を閉じてしまいます。
   開き直ることもあります。
   大切なのは、「次は忘れないようにしよう」と思わせることです。
   強制→自覚へ。
   同じ忘れ物をしないのでも、天と地ほど違います。
  
   すっと、そっと貸すことで、子どもは愛を感じます。
   困っているときに助けてくれる教師に、子どもは愛を感じるのです。
  
 

  いつも見守っている
  
   一人ひとりを見ています。
   その子がこちらを向いたとき、目を合わせます(目で会話します)。
   子どもは、このように思います。
  「いつ見ても、先生はわたしを見ている」
   いい錯覚でしょう(笑)
   もちろん、ストーカーのような見方はダメです。
   監視のような見方はだめです。
   赤ちゃんをやさしく見守る母親のような感じでしょうか。
  
   見守るというのは、いっしょにいるときばかりではありません。
  
   「見守られている」と思うと、安心しますね。
   あの人は、いつも私のことを見ていてくれる。
   私のことを、氣にかけてくれている。
   このように思うと、心があたたかくなります。
   よーしがんばるぞ! やる氣が出てきます。
   このような人がいる方は、幸せですね。
  
   いっしょにいないときでも、距離を感じない…
   ※いっしょにいても、距離を感じる(恋愛の末期)
   先生は、いつも私のことを見守ってくれている」
   この安心感が、やる氣を引き出します。
  

   包み込む
  
   包み込む…
   私にとって、ものすごく難しい課題でした。
   今でも、できているとはいえません。
   しかし、若いころにくらべるとかなりキャパシティーは大きくなりました。
  
   器の大きさが問われます。
   相手に非があるときも責めない。
   受け入れる…
   難しいです。
  「どうして…そこまで…」
  「相手が悪いのに…」
  「私は悪くない…」
   このように思ってしまいます。
  
   ある本で
  「相手の不完全さをそのまま受け入れる〜」
  という言葉を見つけました。
   不完全だから、人間なのだということにはじめて氣づきました。
   ※実感できたという意味です。
   それから、変わりましたね。
   子どもを責めなくなりました。
   全部は無理でも、その子の多くの部分を受け入れるようになりました。

 
   難しい課題
  
   私にとって、難しい課題です。
  
   私は、あるところでいじめにあっていました。
   いろいろな理由で、反撃できませんでした。
   ※このへん、いつもの私と違います。
   反撃しないので、相手は図に乗って責めてきます。
   表で裏で…どんどんエスカレートします。
   それを、がまんしました。
   表面上は、何もなかったように過ごしました。
  「それは、テクニックだ。本心からではない」
   師匠には、すべて見抜かれます。
   ですから、嘘をつくことができません。
   嘘をついても、自分飾っても、丸裸にされてしまうのです。
   
   自分なりにがんばったのですが、叱られました。
   自分に対しやさしくしてくれる人は、包むことができます。
   普通の場合も、包むことができます。
   しかし、攻撃してくるその人を、包むことはできませんでした。
   ※今まで出逢ったことがないくらいものすごい…
   それを包めというのです。
  「なぜ、包まん!」
   師匠に叱られました。
  「あんたのは、まだ本物ではない」
  
   厳しいですね。
   この人を包める人を見てみたいです(笑)


  私にとって、難しい課題です。

 包み込むためには、どうしたらいいでしょうか。
 風呂敷でももってきましょうか(笑)

 現象面に目を向けると、難しいですね。
 相手と同じ次元にいると、けんかになります。
 ついつい、「どうして…」と思ってしまいます。
 ものごとの裏にあるものを見ないと、包み込めないように思います。
 少なくとも、違った見方・考え方をしなくてはいけません。
 発想の転換が必要ですね。

 見方・考え方
 ・高く
 ・深く
 ・広く
 ・厚く
 基本的には、自分が修行してきていることでいいと思いました。
 問題は、相手が飛び抜けてすごい場合です。
 自分キャパシティーを広げないと対応できません。
 「程度があるだろう」と思ってしまいますから。

   行動
  
   いくら愛していても…
   それが伝わるとは限りません。
   伝わらない場合、悲劇的なことも起こります。
   少なくとも私の場合はそうでした。
   「伝わらなくても実行する」尊いことだと思います。
   しかし、それが伝わらないなら…
   相手は、愛を感じません。
   できたら、感じてほしいです(笑)
   ※悟りの境地には、ほど遠いですね。
   ですから、「愛は行動」だと思うのです。
  
   休み中も、一人ひとりのことを思っていました。
   その子の姿を思い描き、メッセージを送りました。
   学校へ行き、子どもたちの机を拭きました。
   教室をきれいにしました。
  
   いよいよ、3学期が始まります。
   子どもたちに会える…
   そう思うだけで、うれしくなります。
  
   愛することは、自分が幸せになることでもありますね。
  

   ストーカー
  
   ストーカーという言葉が、市民権を得てきましたね。
   条例ができたり、すごいですね。
   ストーカーというのも、愛なのでしょうか?
   少なくとも、その人は相手を愛しているのでしょう。
   その相手は、いい迷惑でしょうけど(笑)
   私がいいたいのは、「愛は紙一重」ということです。
   相手がどう感じるか…
   重く感じる→うっとうしくなる→ストーカーのように思う。
   愛を実感する→がんばろうという思いが湧いてくる
   同じ愛でも、大きな違いですね。
  
   ときとして、教師の愛はストーカーっぽくなります。
   学級がうまくいかないときは、必ずそうなっていますね。
   ・とことん愛する。
   ・見返りを求めない。
   ・相手に伝えるすべを工夫する。
   ことが大事だと思います。
  
   3学期が始まりました。
   私の愛は伝わるでしょうか?
 

  見返りを求めない

  とことん愛する。
   ・見返りを求めない。
   ・相手に伝えるすべを工夫する。
     ことが大事だと思います。
  
   と書きました。
   私にとって難しかったのは、2番目の「見返りを求めない」です。
   行動すればするほど、
  「これだけやっているのに…」
   と思ってしまうのです。
   結果として、相手に違う形で伝わります。
   見えない圧力のように。
   自分も経験があるのでよくわかります。
   ありがたいというよりは…迷惑ですね。
   放っておいてちょうだいという感じになるのです。
   自分のことを愛しているというより…
   わたしを振り向かせたいために行動していると感じるのです。
  
   人のことは、客観視できますね(笑)
   ところが、自分のこととなるとできません。
   できるようになるまで、10年以上かかりました。
  

 
   「見返りを求めない…」
   できるようになるまで、10年以上の歳月が必要でした。
   どうしても、
  「こんなにやっているのに…」
   という思いが消えないのです。
   「してあげている」という思いがあると、うまくいきません。
   相手にとって圧力になるからです。
   ありがた迷惑になるからです。
   最初は、そのことすらわかりませんでした。
  「どうして…」
   実践すればするほど傷つくのです。
   いろいろな本を読んでも、なんか納得できません。
   心のどこかに、
  「自分は、子どものために犠牲になっている」
   という思いがあったのかもしれません。
   この思いが消えるまでに、時間がかかりました。
  「見返りを求めるのなら、最初からしないほうがいい」
   今ならわかるこの言葉。
   当時は、理解できませんでした。

  水谷修先生に学ぶ

  最近、水谷修先生の本を読みました。
   ベストセラーは読まない私が、手にしたくなったのです。
  「見返りを求めない…」
   まさに、そのことが書いてありました。
  「いいんだよ」
   魔法の一言ですね。
   まいりました。
   すべてを受け入れる、包み込む…
   愛がなければいえないです。
   愛がなければできないです。
   でも、水谷先生は「自分が子どもたちに救われている」といっています。
   「見返りを求めない」原点を見たように思いました。
   
   私たちは、昼の世界に生きています。
   水谷先生がかかわっている、そこまで凄まじい世界ではありません。
   もっともっとがんばらねば…と思いました。
  

  相手が喜ぶと

   ある方から、メールが来ました。
   「見返りを求めない」話です。
  
   その方の習い事の先生の話です。
  
   「先生は、人に対して、腹が立つことはないの?」
   「ないよ。」
   「生まれたときから、ずっと?」
   「ずっと。」
   「こんなにしてあげたのに、って思ったことはないの?」
   「ない。」
   と、即答しましたが、しばらく考えられて
   「相手が喜ぶと自分も嬉しいでしょ。
    見返りを求めるぐらいなら 最初から、しない。」
  
   という話です。
  
    すごいですね。
  
   
   天然か努力か

   すばらしい人がたくさんいます。
   どうしてそこまでできるのだろう…
   どうしてそこまで愛せるのだろう…
   私の見るところ、みなさん、天然なのです。
   無理していないのです。
   「愛そう」と、力んだりしません。
  
   夜回り先生、師匠も同様です。
   野球でいえば、松井秀選手でしょうか。
   ※私も、天然といわれています(別の意味ですけど 笑)
   生育歴も大きくかかわってきますね。
  
   このように考えると、私は第一次審査で落ちています。
   努力することは、無理がある…
   しかし、天然でない人は、努力するしかないでしょうね。
   メッキもはげなければ金になるのです。
   がんばらなくては!
  
 
 素直に
 
 今日は、学力テストで大忙し。
 面談、「スキル集2」の作成と、仕事のオンパレード。
 息つく暇がありませんでした。
 そんな私を見かねて、事務の先生(2人)が、手伝ってくださいました。
 「スキル集2」校正→手直しをしてくださったのです。
 愛を感じました(笑)
 私は、人にお願いすることがほとんどありません。
 できる限り、自分でやります。
 厳しい状況でも、人の好意に甘えないのです。
 しかし…最近、考えを変えました。
 もっと、かわいくなろう。
 親切はうけよう。
「私、やりましょうか」
「お願いします」
 素直にお願いしました。

 今までの私は、人の親切を無にしていたように思いました。
 ※決してそうではないのですが…結果的にそうなっていました。

   全員に決まっている

   愛とは行動であると思います。
   わがクラスには、素敵な子がたくさんいます。
   何人かって?
   全員に決まっているじゃありませんか。
   中でも、T子さんは素敵です。
   毎日、例外なく、「さようなら」の後残ります。
   みんなの机を整頓するのです。
   杉渕学級の子どもたちは、一応机やいすをそろえて帰ります。
   ですから、乱れているということはありません。
   それにもかかわらず、彼女は机を整頓するのです。
   その姿は、何ともいえません。
   いとおしむような感じで机をそろえていきます。
   本当に素敵です。
   人が見ていようと見ていまいと、彼女の行動は変わりません。
   淡々とやっています。
   ほほえみながらやっています。
   もちろん、私も机をいっしょにそろえています。
  
   
   いっしょに

   最近、いっしょに机をそろえるのが楽しみです。
   2人は、黙って机をそろえます。
   終わると、「さようなら」
   黙っていても氣持ちは通じます。
  
   今日は、T子さんが休みでした。
   久しぶりの欠席です。
   つまんないなーと思いながら、いつも通り机をそろえはじめました。
   すると、ある男の子が机をそろえているではありませんか。
   その姿は、T子さんにそっくりでした。
   ※体型ではありません(笑)
   やはり、いとおしむように机をそろえているのです。
   1つひとつ、ていねいに、そろえる指、手がすごくきれいです。
   時間にして、2分くらいでしょうか。
   愛があると姿や動きがきれいに見えるのだと思いました。

   場を清める

   今日は、児童会室をきれいにしました。
   私の学級が、掃除を担当しています。
   しかし、階段の前にあり、人の出入りが多いです。
   ※児童会の打ち合わせ、活動、高学年男子の着替えなど。
   掃除しても掃除しても、すぐきたなくなります。
   以前、完璧に掃除したことがありました。
   水ぶきし、ほこりもすべて取りました。
   次の日…掃除してみると…
   たくさんほこりがありました。
   それくらい、すぐによごれるのです。
  「ロッカーふきからはじめよう」
   当番の子に、声をかけます。
   掃いても掃いても、ロッカーのほこりが落ちてくるのです。
   ロッカー上、中、分担して、きれいに水ぶきしました。
   次は、隅です。
   椅子が積み重ねられている後ろ側、スチール製のロッカーの後ろ側など。
   隅々をきれいにしました。
   机や椅子の脚の裏もきれいにしました。
   こういうところをきれいにしないと、ほこりは減らないのです。
   掃いても掃いてもきれいにならない…
   子どもたちは、いつもまじめに掃除していることが多いです。
   それでも、きれいではない。
   いえ、むしろ汚いのです。
   それから、床を掃きました。

   180度の違い

   最近、若い先生方からメールをもらうことが多いです。
   ほとんどが、相談ごとです。
   共通しているのが、子どものせいにしていることです。
   悩んでいるのは、わかります。
   くるしんでいるのも、わかります。
   でも、うーんと思ってしまいますね。
   ・話を聴かない
   ・掃除をまじめにしない
   ・朝会のとききちんと並べない
   ・けんかがたえない
  
   かなり前のことです。
   ある先生は、問題を起こす子を叱ってばかりいました。
   まわりの子どもたちも、その子のことを先生に告げ口します。
   ちくるのです。
   その子は、よくなったでしょうか。
   ますます荒れていきました。
   学級がこわれるまでに、そう時間はかかりませんでした。
   授業中、掃除中も、すごかったですから…
   私がいくと、静かになるのです。
   その子は、騒ぎません。
   掃除も、きちんとするのです。
  
   どうして、180度違うのでしょうか。


   担任が指導すると、混乱。
   教室は、喧噪。
   暴れまくる子。
   私が指導すると、静かに掃除します。
   同じ学級が、180度違うのです。
   どうして、このような違いがあるのでしょうか。
  
   教師の対応に他なりません。
   たとえば…
   その担任
  「なにやってるの。掃除の時間でしょ。まじめにやりなさい」
   私
  「○○くん、真剣に掃除しているね、いいぞ」
   その担任
  「どうして、ぞうきんがけをしないの」
   私
  「ほら、見てごらん、こうするときれいになるよ」
   ※子どもを集めて、机を拭いてみせる。
   などなど、対応が180度違うのです。
  
   その方は、悪い子ばかり見ています。
   騒ぐ子ばかり見ています。
   私は、まじめに掃除する子を見ます。
   それを評価します。
   基本中の基本ですね。
   あたりまえのことです。
   しかし、うまくいかない場合は、あたりまえのことができていません。
  
  その方はいいました。
  「子どもは、杉渕先生が怖いからいうことをきく」
   悲しくなりました。
   あまりにも短絡的な考えです。
   力のなさを認めたくないのでしょう。
   それは、よくわかります。
   子どもの、私にせいにしたいのでしょう。
   それも、よくわかります。
   しかし、真実を見つめない限り状況は変わりません。
  
   私は、やはり愛だと思うのです。
   ちょっと、愛がたりないのではないでしょうか。
   本当に子どものことを愛しているのなら、工夫すると思います。
   すくなくとも、私はどうしたらいいか考え工夫します。
   人のせいにしているところに愛はありません。
   だから、子どもは荒れるのだと思います。
  

  救命病棟

  「救命病棟24時」すばらしい番組ですね。
   江口洋介さん、かっこいいです。
   葛藤がありますね。
   患者か家族か…
  
   私は、神津島に5年間赴任していました。
   震度6を2度経験しました。
   島中がパニックになりました。
   全校児童130人中、80人近くが島外に避難しました。
   残ったのは50名弱…
   避難しようにも、できない人たちです。
   教員は…
   ほとんどの教師が、家族を都内に帰しました。
   私だけが、そうしませんでした。
   家内が泣きながら言いました。
  「私は、本当は帰りたいの。いつまた、地震があるかもしれないし…」
   私はいいました。
  「俺は教師だ。自分の家族を安全な場所に避難させて、子どもの前に立てるか」
  
   まさに…江口洋介の仲村トオルの葛藤でした。
   もちろん、家族は大切です。
   安全な場所に避難させたいです。
   でも、それをすれば、私は教師でなくなるのです。
   自分の家族を避難させて…
   残された子どもたちに、なんといえばいいのでしょう。
   逃げないのが、杉渕なのです。
   家内が帰りたいといえば、帰すつもりでした。
   でも、 帰りませんでした。
   さすが、私の選んだ人です。
   あとで、さんざんいわれました。
   地震喪失、いえいえ、自信喪失です(笑)
  
   私たちは、夏も島に残り、復興の手伝いをしました。
  
   
   愛の形

   愛には、いろいろな形がありますね。
   地震のとき…家族をとるか、学級の子どもたちをとるか…
   どちらが正しいということはありません。
   状況にもよります。
   価値観も、反映されることでしょう。
   難しい問題です。
  
   多かれ少なかれ、教育にはついて回る問題ですね。
   短期的に見るか、長期的に見るか…
   何を大切にするか…
   毎日のように悩みます。
   「これでいい」というものがないからです。
   今日「よし」と思っていたことが、明日はそうなりません。
   そんな簡単なものではないのです。
   葛藤の連続です。
   「救命病棟24時」を見ていると、自然に涙が出てきます。
   20数年の教師生活の中から、葛藤場面が思い出されるのです。
   はたして、そのときの選択はよかったのか。
   わかりません。
   今でも、毎日悩んでいます。
  

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